サントリーニ島における観光の目玉は大きく分けると、地理的なものと歴史的なものがある。
地理的なものは、なんてったって崖。
これについては、ブラタモリ風にちょこっと地理や崖ホイホイ、ついでにイアの洞窟ハウスなどに書きまくった。
今回は、歴史的な観光についてと、その他の分類しがたい観光スポットについてメモします。
わたしたちがよく知る古代ギリシアといえば都市国家ポリス。神殿やアゴラ、ゼウスやアポロ、そして民主政。
しかーし、サントリーニには、そのザ・古代ギリシアよりさらに前の、スーパー古代文明が栄えていたのです。歴史概要を語り始めると長くなるので、詳しくは最後に。
まずはエリアごとの観光地巡りをしましょう!
イアと反対側の島の端っこ。
いつも見ていた場所に行き、そこから反対にイアを眺める。なぜか感慨深い。
灯台を見たあと、遺跡そばの the Dolphins というレストランに行った。
駐車場のそばに教会があったので、食後にちらっと教会を見に行った。
(教会はどっこにでもあるんだけどね。なんとなく、つい。)
さて車に戻ろうと思ったら、往年の東映女優のごとくゴージャスな韓国人のお姉さんに 声をかけられ、ぜひ向こう側にも行った方がいいと強く勧められた。
いや、できれば遺跡に行きたいので時間がなく…と躊躇したけれど、すぐそこだというので行ってみた。
あんれ~~。ほんとにすごいじゃ==ん。
地図で確認してみると、レッドビーチというスポットですね。
これはほんと、行って良かった。東映女優のお姉さん、ありがとう!
それからアクロティリ遺跡に向かいましたが、時すでに閉園の15時近く。
今から入ってもねえと諦めた。そしてその後、遺跡を訪れる機会は巡ってこなかった😭
見どころが多すぎるぞ、サントリーニ。
古代ティラは15時で閉園してしまうので、なかなかいく機会がなく、
要塞集落のことは勉強不足のために理解しておらず、
島の一番高いところに行くぞ!パノラマビュー!という目的のみ達成することができた。
Profitis Ilias 山の頂上にある Prophet Elias という修道院が、島の頂上の目印。
修道院は1711年に建てられた。19世紀前半の最盛期には、自ら船を持ってビジネスを経営し、教育も行っていたとか(culture trip)。
たしかに、眺めがよろしい。フィラもイアも、崖ホイホイの道のりも、一度に見ることができる。
こんな不思議な植物も生息していた。陽気な紫キャベツと名付けよう。
一本の大通り(ワイナリー通りと呼ぼう)に、近接して点在していた。
ワインを楽しむなら③、食事をするなら②、博物館が①という紹介。
食事のための②は、行った時にお休みだったので未体験。
ワインを楽しむための③から紹介を始めよう。
1903年創業、ブドウ栽培は8世代目、ワイナリーは4世代目だという。
店番をしていたのは、上品な奥さま。
ソムリエを呼べばテイスティングができたのだけど、やめておいた。
そういえば、ここのワイン飲んだことあるし。
美味しい肉レストラン(Kokkalo)でローカルワインを注文したときのやつだ(左)。安くておいしかった。
ここでつくっている赤ワインは2種類。このワイナリーで購入すると、
左側のワインが10ユーロだったかな。
右側のワインは高級版で29ユーロ。
未体験の高級版を洞窟ハウスでの家飲み用に購入した。フルボディでおいしかった。
行くつもりはなかったのだけど、雨降りの夕方、もう他の場所には行けないしと、その近くにいたので立ち寄ってみた。
諸手を挙げてお勧めというわけではないけれど、地味に思い出深い。
たいへん愉快で😂、けっこう勉強になった。
大型バスが何台も停まれそうな広ーい駐車場に、大きな看板。
21か国語で博物館のことが紹介されている。
博物館のメニューは3種類。その中から、
入館料と4種類のワイン試飲、しめて10ユーロのコースを選択。
「地下8メートル、まるで迷路のような300メートルの長さのワイン博物館」(駐車場の看板より)へ降りていくと、
迷路に沿って展示ブースが続いている。展示ブースは50くらいか、もっとあったかも。
それぞれのブースごとに、音声ガイドのレシーバーから、日本語で説明を聞くことができるのだ。
1番目の展示の説明でノックアウトされた😆
日本人のおばさんの声、教育ラジオのような淡々とした口調で、「ようこそワイン博物館へ。1870年に吉兆屋のプロ助が…」と始まった。
えええ==!吉兆屋のプロ助ってどういうこと==!!???
あたま真っ白。それ以降の説明がちっとも頭に入ってこない。
それは人の名前なの?歴史的事件、はたまたぶどうの種類??
あとでわかったことに、ワイン博物館の母体が Koutsoyannopoulous winery。
クッチョヤノプロス家のワイナリーで、現在は4代目のジョージがご当主(もちろん右側の人)。
「クッチョヤノプロス家」が「吉兆屋のプロ助」に聞こえたっつうこと。
いやー、この「吉兆屋」事件は相当面白かった😂
上の写真右側が二番目のブース。初代吉兆屋がぶどうの枝を巻き巻きしている場面。
これは、クルーラー(kouloura)というサントリーニ固有の栽培方法で、猛烈海風と強い日差しからぶどうをまもるための栽培方法なんだって。
おっ、Kallisti のレストランで薪にしていたやつだ💡
まだ2番目のブースで、すでに盛りだくさん!
各ブースの展示が、これまた学芸会のようにふざけた出来栄えですが(それがまた面白い😆)、非常に細かく真摯に説明されていました。
いやあ笑った笑った。
さて、地下博物館の次は地上に戻ってテイスティング。
赤と白、それから名産のデザートワインを2種類テイスティングしました。
赤はぜんぜんおいしくなかった(ごめんなさい)、ライトでスモーキー。白もいまいち。
デザートワインはおいしかった!まるで飲む干しブドウや~。
イタリアの「ヴィンサント」はそもそもサントリーニが発祥の地だそうな。
「13世紀頃から地中海に勢力を誇ったヴェネチアの商人」がイタリアに持ち帰って好評を得たらしい(WANDS)。
ちなみに、接客してくれたお兄さんは吉兆屋家のご子息ではありません(外国人な感じがしたなあ)。
崖オンリーのイアとは異なり、フィラには車が通れる大通り側にも街が広がっており、
博物館とか、レストランやショップ、スーパーマーケットなど、普通にいろいろあって都会です。オフシーズンでもたくさん人がいた島で唯一の場所。
この辺では、島の普通のくらしが垣間見られたのが楽しかった。
ちょっとフィラより北側だけど、普通の庶民的な家とか、
学校(遊び場?)とか。
非日常の絶景観光スポットも良いですが、
人びとの日常の生活も興味深いですね。
このように点と点が少しずつ線で結ばれ、経験値がほんの少しずつ上がっていった旅でした。
紀元前3000年頃から2000年頃まで、
ミコノスやサントリーニといったエーゲ海に点在する美しい島々、キクラデス諸島には「キクラデス文明」が栄えていました。
この頃の遺跡が、島の下の方アクロティリにあります。
幻のアトランティスといわれるほどの、「空前の規模をもつ古代都市」だったそうです(周藤芳幸, 2007,『図説 ギリシア―エーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房)。
ところが紀元前1500年頃(諸説あり)に巨大な大噴火があり、その後13世紀までには、一度島から人の気配が途絶えたそうです。
その後、レバノンに起源をもつ海上貿易の民、フェニキア人が紀元前1200年頃から900年頃まで住みついた。
紀元前9世紀に、ザ・古代ギリシアの都市国家が誕生します。
その後ギリシアはローマ帝国、続いて東ローマ帝国の支配下に入るが、島の政治には重要な変化がなかったらしい(Santorini.com)。
ただし、宗教的には劇的な変化あり。東ローマ帝国時代のはじめ、4世紀になって島にキリスト教がもたらされた。
ここが(わたしにとって)、ギリシアの歴史のややこしいところ。
一般的にローマ帝国時代以降にギリシア人は、ローマ人としてのアイデンティティを確立することになります。
古代ギリシアの神はいなくなり、敬虔なキリスト教徒になっていく。古代ギリシア人よ、さようなら~。
1204年、第4回十字軍の後、ヴェネツィア人がやってきてエーゲ海の島々に「ナクソス公国」を建設する。
「サントリーニ」という島名は、Saint Irene 教会にちなんで十字軍によってつけられた。
この時代にサントリーニは、綿とぶどうの栽培で経済的に発展したけど、海賊の襲撃も多かった。
監視塔として、Imerovigli, Pyrgos, Emporio, Akrotiri, Oiaに5つの城塞(kastelia)が建設された。現在、ピルゴス(Pyrgos)の城塞集落のみが昔ながらの姿をとどめており、町並み保存されています(Santorini.com)。
1579年から1821年はオスマン帝国時代。
レスボス島出身の、大海賊でありオスマン帝国の提督、バルバロスさん(Barbaros Hayreddin Pasa)がエーゲ海の島々をヴェネチア人から奪取した。
海賊の襲撃がおさまり(大海賊だもんね😓)、おかげで国際貿易が繁栄した。サントリーニが独自に艦隊をもつほど羽振りよし。
18世紀、農作物とワインの貿易商人たちが「係留した船が見下ろせるカルデラの絶壁に商館と集落」を築き、「この時期に最も栄えたのがイアの街」だという(wiki)。
その後、1821年から1833年の独立戦争では、サントリーニの艦隊も活躍。
20世紀初頭まで島は、ワイン、トマト、生地の輸出で繁栄する。
しかし、蒸気船が登場すると島の重要性が薄れ、ローカル経済が急速に衰退。
1944年、第二次世界大戦後にはドイツとイタリアに一時期占領される。
1956年に大地震と噴火があり、島の構造物の85%が破壊される。
1970年代後半から観光産業が起こり、町並みが復元され、現在のような観光地へ。
以上、サントリーニの5000年の歴史をざざーっと概観しました。
スーパー古代(キクラデス文明)、ザ・古代ギリシア、ローマ・東ローマ帝国・ナクソス公国、オスマン帝国、そして独立戦争を経て現在へと、目まぐるしい歴史ですね。
それぞれに、遺跡や建物の名残があり、一つ一つ巡りながら、
その時々に、住人のくらしや文化やアイデンティティがどのように変化していったのか、心に刻もう。それが旅のだいご味だぜい!と思っていたけど、
見どころがありすぎて、ぜんぜん時間が足りなかったよ~~。
こんな全体像を心にとどめつつ、訪れることのできた数少ない観光地を、写真とともにご紹介しました!
その他のギリシア旅行記事はこちら☛ ギリシア旅行の記事マップ
地理的なものは、なんてったって崖。
これについては、ブラタモリ風にちょこっと地理や崖ホイホイ、ついでにイアの洞窟ハウスなどに書きまくった。
今回は、歴史的な観光についてと、その他の分類しがたい観光スポットについてメモします。
はじめに
サントリーニの歴史は実に奥が深い。5000年の歴史。わたしたちがよく知る古代ギリシアといえば都市国家ポリス。神殿やアゴラ、ゼウスやアポロ、そして民主政。
しかーし、サントリーニには、そのザ・古代ギリシアよりさらに前の、スーパー古代文明が栄えていたのです。歴史概要を語り始めると長くなるので、詳しくは最後に。
まずはエリアごとの観光地巡りをしましょう!
アクロティリ
アクロティリは人口450人の集落です(2001年時点)
5000年前に古代都市が起こり、中世にも要塞集落が建設されました。
イアと反対側の島の端っこ。
いつも見ていた場所に行き、そこから反対にイアを眺める。なぜか感慨深い。
イアから見たアクロティリ(左)とアクロティリから見たイア(右)
アクロティリ側の端っこの端っこ(先端)に灯台がある。
この灯台はオスマン帝国の時代、1892年にフランスの企業によって建てられたそうです(Santorini.com)。オスマン帝国時代における貿易の繁栄がうかがわれる。灯台を見たあと、遺跡そばの the Dolphins というレストランに行った。
駐車場のそばに教会があったので、食後にちらっと教会を見に行った。
(教会はどっこにでもあるんだけどね。なんとなく、つい。)
さて車に戻ろうと思ったら、往年の東映女優のごとくゴージャスな韓国人のお姉さんに 声をかけられ、ぜひ向こう側にも行った方がいいと強く勧められた。
いや、できれば遺跡に行きたいので時間がなく…と躊躇したけれど、すぐそこだというので行ってみた。
あんれ~~。ほんとにすごいじゃ==ん。
地図で確認してみると、レッドビーチというスポットですね。
これはほんと、行って良かった。東映女優のお姉さん、ありがとう!
それからアクロティリ遺跡に向かいましたが、時すでに閉園の15時近く。
今から入ってもねえと諦めた。そしてその後、遺跡を訪れる機会は巡ってこなかった😭
見どころが多すぎるぞ、サントリーニ。
丘のあたり
今思えば、古代ティラや、唯一保全されている中世の要塞集落ピルゴスなど、見どころがたくさんあったのだけど、古代ティラは15時で閉園してしまうので、なかなかいく機会がなく、
要塞集落のことは勉強不足のために理解しておらず、
島の一番高いところに行くぞ!パノラマビュー!という目的のみ達成することができた。
Profitis Ilias 山の頂上にある Prophet Elias という修道院が、島の頂上の目印。
修道院は1711年に建てられた。19世紀前半の最盛期には、自ら船を持ってビジネスを経営し、教育も行っていたとか(culture trip)。
たしかに、眺めがよろしい。フィラもイアも、崖ホイホイの道のりも、一度に見ることができる。
こんな不思議な植物も生息していた。陽気な紫キャベツと名付けよう。
ワイナリー通り
ワイナリーは、B&Bのホストから3軒紹介された。一本の大通り(ワイナリー通りと呼ぼう)に、近接して点在していた。
ワインを楽しむなら③、食事をするなら②、博物館が①という紹介。
食事のための②は、行った時にお休みだったので未体験。
ワインを楽しむための③から紹介を始めよう。
Argyros
高級感のある店構え、店内のテイスティングテーブルもスタイリッシュ。1903年創業、ブドウ栽培は8世代目、ワイナリーは4世代目だという。
店番をしていたのは、上品な奥さま。
ソムリエを呼べばテイスティングができたのだけど、やめておいた。
そういえば、ここのワイン飲んだことあるし。
美味しい肉レストラン(Kokkalo)でローカルワインを注文したときのやつだ(左)。安くておいしかった。
ここでつくっている赤ワインは2種類。このワイナリーで購入すると、
左側のワインが10ユーロだったかな。
右側のワインは高級版で29ユーロ。
未体験の高級版を洞窟ハウスでの家飲み用に購入した。フルボディでおいしかった。
ワイン博物館(吉兆屋)
次に①のワイン博物館。行くつもりはなかったのだけど、雨降りの夕方、もう他の場所には行けないしと、その近くにいたので立ち寄ってみた。
諸手を挙げてお勧めというわけではないけれど、地味に思い出深い。
たいへん愉快で😂、けっこう勉強になった。
大型バスが何台も停まれそうな広ーい駐車場に、大きな看板。
21か国語で博物館のことが紹介されている。
博物館のメニューは3種類。その中から、
入館料と4種類のワイン試飲、しめて10ユーロのコースを選択。
「地下8メートル、まるで迷路のような300メートルの長さのワイン博物館」(駐車場の看板より)へ降りていくと、
迷路に沿って展示ブースが続いている。展示ブースは50くらいか、もっとあったかも。
それぞれのブースごとに、音声ガイドのレシーバーから、日本語で説明を聞くことができるのだ。
1番目の展示の説明でノックアウトされた😆
日本人のおばさんの声、教育ラジオのような淡々とした口調で、「ようこそワイン博物館へ。1870年に吉兆屋のプロ助が…」と始まった。
えええ==!吉兆屋のプロ助ってどういうこと==!!???
あたま真っ白。それ以降の説明がちっとも頭に入ってこない。
それは人の名前なの?歴史的事件、はたまたぶどうの種類??
クッチョヤノプロス家のワイナリーで、現在は4代目のジョージがご当主(もちろん右側の人)。
「クッチョヤノプロス家」が「吉兆屋のプロ助」に聞こえたっつうこと。
いやー、この「吉兆屋」事件は相当面白かった😂
上の写真右側が二番目のブース。初代吉兆屋がぶどうの枝を巻き巻きしている場面。
これは、クルーラー(kouloura)というサントリーニ固有の栽培方法で、猛烈海風と強い日差しからぶどうをまもるための栽培方法なんだって。
おっ、Kallisti のレストランで薪にしていたやつだ💡
まだ2番目のブースで、すでに盛りだくさん!
各ブースの展示が、これまた学芸会のようにふざけた出来栄えですが(それがまた面白い😆)、非常に細かく真摯に説明されていました。
いやあ笑った笑った。
さて、地下博物館の次は地上に戻ってテイスティング。
赤と白、それから名産のデザートワインを2種類テイスティングしました。
赤はぜんぜんおいしくなかった(ごめんなさい)、ライトでスモーキー。白もいまいち。
デザートワインはおいしかった!まるで飲む干しブドウや~。
イタリアの「ヴィンサント」はそもそもサントリーニが発祥の地だそうな。
「13世紀頃から地中海に勢力を誇ったヴェネチアの商人」がイタリアに持ち帰って好評を得たらしい(WANDS)。
ちなみに、接客してくれたお兄さんは吉兆屋家のご子息ではありません(外国人な感じがしたなあ)。
フィラ
フィラは人口2,113人(2001年時点)、島の中心。
観光用の絶壁路地エリアについてはイアで慣れているので特に興奮せず(☛イア地区)。遠くにイアが見えたよ(写真右)。
崖オンリーのイアとは異なり、フィラには車が通れる大通り側にも街が広がっており、
博物館とか、レストランやショップ、スーパーマーケットなど、普通にいろいろあって都会です。オフシーズンでもたくさん人がいた島で唯一の場所。
この辺では、島の普通のくらしが垣間見られたのが楽しかった。
ちょっとフィラより北側だけど、普通の庶民的な家とか、
学校(遊び場?)とか。
非日常の絶景観光スポットも良いですが、
人びとの日常の生活も興味深いですね。
教会建築と猫
最後に、これはぜひ記録しておきたい。
崖ハイキングの途中でみた、ローカルな小さな教会。
あっ、知ってる💡
イアの東側、高級ゴーストタウンで、
猫が二階建てで座っていたオブジェだ!あれは教会建築がモチーフだったのか~。と納得。
このように点と点が少しずつ線で結ばれ、経験値がほんの少しずつ上がっていった旅でした。
サントリーニの歴史
では満を持してサントリーニの歴史を概観したいと思います。紀元前3000年頃から2000年頃まで、
ミコノスやサントリーニといったエーゲ海に点在する美しい島々、キクラデス諸島には「キクラデス文明」が栄えていました。
この頃の遺跡が、島の下の方アクロティリにあります。
幻のアトランティスといわれるほどの、「空前の規模をもつ古代都市」だったそうです(周藤芳幸, 2007,『図説 ギリシア―エーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房)。
ところが紀元前1500年頃(諸説あり)に巨大な大噴火があり、その後13世紀までには、一度島から人の気配が途絶えたそうです。
その後、レバノンに起源をもつ海上貿易の民、フェニキア人が紀元前1200年頃から900年頃まで住みついた。
紀元前9世紀に、ザ・古代ギリシアの都市国家が誕生します。
スパルタからやってきてたティラ(Theras)さんが、植民都市、古代ティラを築いたのです。
これが現在の市名でもある。その古代都市の遺構は島の右側あたり。アゴラや劇場といったいわゆるザ・古代ギリシアの跡が残されている。ただし、宗教的には劇的な変化あり。東ローマ帝国時代のはじめ、4世紀になって島にキリスト教がもたらされた。
ここが(わたしにとって)、ギリシアの歴史のややこしいところ。
一般的にローマ帝国時代以降にギリシア人は、ローマ人としてのアイデンティティを確立することになります。
古代ギリシアの神はいなくなり、敬虔なキリスト教徒になっていく。古代ギリシア人よ、さようなら~。
1204年、第4回十字軍の後、ヴェネツィア人がやってきてエーゲ海の島々に「ナクソス公国」を建設する。
「サントリーニ」という島名は、Saint Irene 教会にちなんで十字軍によってつけられた。
この時代にサントリーニは、綿とぶどうの栽培で経済的に発展したけど、海賊の襲撃も多かった。
監視塔として、Imerovigli, Pyrgos, Emporio, Akrotiri, Oiaに5つの城塞(kastelia)が建設された。現在、ピルゴス(Pyrgos)の城塞集落のみが昔ながらの姿をとどめており、町並み保存されています(Santorini.com)。
1579年から1821年はオスマン帝国時代。
レスボス島出身の、大海賊でありオスマン帝国の提督、バルバロスさん(Barbaros Hayreddin Pasa)がエーゲ海の島々をヴェネチア人から奪取した。
海賊の襲撃がおさまり(大海賊だもんね😓)、おかげで国際貿易が繁栄した。サントリーニが独自に艦隊をもつほど羽振りよし。
18世紀、農作物とワインの貿易商人たちが「係留した船が見下ろせるカルデラの絶壁に商館と集落」を築き、「この時期に最も栄えたのがイアの街」だという(wiki)。
その後、1821年から1833年の独立戦争では、サントリーニの艦隊も活躍。
20世紀初頭まで島は、ワイン、トマト、生地の輸出で繁栄する。
しかし、蒸気船が登場すると島の重要性が薄れ、ローカル経済が急速に衰退。
1944年、第二次世界大戦後にはドイツとイタリアに一時期占領される。
1956年に大地震と噴火があり、島の構造物の85%が破壊される。
1970年代後半から観光産業が起こり、町並みが復元され、現在のような観光地へ。
以上、サントリーニの5000年の歴史をざざーっと概観しました。
スーパー古代(キクラデス文明)、ザ・古代ギリシア、ローマ・東ローマ帝国・ナクソス公国、オスマン帝国、そして独立戦争を経て現在へと、目まぐるしい歴史ですね。
それぞれに、遺跡や建物の名残があり、一つ一つ巡りながら、
その時々に、住人のくらしや文化やアイデンティティがどのように変化していったのか、心に刻もう。それが旅のだいご味だぜい!と思っていたけど、
見どころがありすぎて、ぜんぜん時間が足りなかったよ~~。
こんな全体像を心にとどめつつ、訪れることのできた数少ない観光地を、写真とともにご紹介しました!
その他のギリシア旅行記事はこちら☛ ギリシア旅行の記事マップ