キラキラの都市国家アテナイ[ギリシア・アテネ 2019.1]

ギリシアといえばアテネ、アテネといえば古代都市国家。
民主政をはじめて確立した都市国家(ポリス)である、古代のアテネイに思いをはせてみたい。




都市空間

古代のアテネはどのような街だったのでしょう?
アクロポリス博物館にジオラマがありました。ジオラマ大好き💖
2世紀ごろの模型ということで、ポリス社会の全盛期をすぎ、ローマ帝国時代のものになりますが、とりあえずよしとしよう。
しかも撮影した方向が悪くて、上が南になっています…😨


ローマ帝国の支配下に入る前のポリス社会における重要施設は、
なんといっても「古代アゴラ」と「アクロポリス」、そして「プニュクスの丘」。

ポリスを構成する人口は、最盛期で20万人以上だったというから、かなりでかい。

そのたくさんの人びとを精神的に統合するのが信仰。アクロポリスに建つ荘厳な巨大神殿は古代アテネの人々の誇りであり、われわれ感情の要となっていたでしょう。

アクロポリスが聖なる空間であるのに対して、アゴラは世俗の空間。
実質的に民主政が実践されたのがアゴラです。諸々の評議会や裁判、その準備や執行や、情報の周知や交換や議論などが日常的に繰り広げられていた。
加えて、市民総会(民会)はプニュクスの丘で開かれた。

いま、アゴラ跡からアクロポリスを仰ぎ見るとこんな感じ。




民主政

紀元前508年、クレイステネスの改革がアテネの民主制の起源とされている(以下すべて、周藤芳幸, 2007,『図説 ギリシア―エーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房より)。
彼が考案した10部族制は、ちょっとややこしいよ。
まずアッティカというアテナイの領域が都市部、沿岸部、内陸部の三つに分割され、
さらにそれぞれが10の部分に分けられる。
3分割のそれぞれから1つずつの部分を組み合わせて1つの部族をつくる。つまり、全部で10の部族がつくられる。

毎年、1つの部族から50人ずつ、10部族あるから、計500人が選抜されて500人評議会が構成される。この選抜は、選挙ではなく、くじ引きだったそうです。
つまり、よく立候補する職業政治家ではなく、有権者すべてが評議員をローテーションするってこと。エリートにお任せの無責任政治ではなく、有権者一人一人のオーナーシップが高くなるよねえ。
500人評議会が開催されるのは、もちろんアゴラのなかにある建物(ブーレウテリオン)。

評議会で一定程度議論された議題は、最終的には民会(市民総会)で決議される。
ちなみに、女性や奴隷を除く有権者(市民)は3~5万人程度だったらしい。
そのすべてではなく、6000人程度の人がプニュクスの丘に集まったという。民会は1か月に4回程度。かなり頻繁だあ。
高官の仕事の承認、食糧問題、防衛問題などが話し合われたという。

さらに、評議員500人のうち、一部族(50人)ずつが交代で当番議員として一年の1/10の期間ずつを担当し、アゴラに駐在して執務を執り行っていた。
民会と評議会と、そして当番の執務と、アテナイ市民は実に政治に熱心だね!(たとえ熱心じゃなくても…、当番が回ってくるんだろうけど)

なお、民主改革以前にはアレオパゴスの丘に貴族たちの会議所が置かれていたのですが、
民主政の成立にともない、紀元前462年にアレオパゴス会議の権限がはく奪され、民会に移されたらしい(wiki)。
アレオパゴスの丘からアクロポリスを見るとこんな感じ。
ここは丘というか岩!ここに登るのは命がけだった。というのは大げさだけど怖かった。わたしが貴族だったら、こんなゴツゴツの岩の上でなくて、アゴラのような平地で会議をしたい。

こういった都市国家アテナイの全盛期は、日本でいえば弥生時代😲
そんな大昔にアテネでは民主政を確立し、アクロポリスやアゴラを建設するなんて。環濠集落ができましたレベルの話じゃないからね。
しかも日本では、紀元後の邪馬台国がどこにあったのかさえ分からない、卑弥呼がどんな人物だったかもいまだミステリーなのに、ギリシアの都市国家については、よくもここまでわかっているんだねえ。文明のレベルがぜんぜん違う💦


アテナイの衰退

都市国家アテナイの栄光は、史上最高に有名なわりには、それほど長くない。
紀元前338年には、マケドニアに敗れ、マケドニア中心の同盟に加わる。立場弱し。
紀元前168年にはローマの支配下に入る。
東ローマ帝国ではギリシア語話者が支配的だったとはいえ、彼らはギリシア人ではなくローマ人を自認する正教キリスト教世界の住人である。つまりその時点で、古代ギリシア文明の継承者は一度消滅したといってよいでしょう。

アテナイのシンボルとして、絶頂期の紀元前438年に完成したパルテノン神殿は、6世紀にキリスト教の教会に転用される。
その後オスマン帝国支配下ではモスクになったり、火薬庫になったり、爆破されたり、ふんだりけったり。

古代ギリシアのトップ・ポリスだったキラキラのアテネイは、2000年後にはただの寒村に。
20万人を超えた人口は、1830年代の独立時点では1万人程度にまで寂れたという。


アテネが復活するのは、ヨーロッパ人の憧れ「古代ギリシア」を投影した「近代国家ギリシア」がヨーロッパ人の支援を得て形成されたとき。
古代ギリシアの栄光であるアテネが首都とされ、古代との連続性を取り戻すべく、
それらしい都市計画がなされ、アラブ的クネクネ道は撤去された。
また現在でもなお、アクロポリスなどの遺跡が発掘・修復されている。これまた、ヨーロッパ人の資金力と人材と熱意に多くを拠って(村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史』中央公論社)。

ちなみに、ヨーロッパ人の古代ギリシアへの愛は、14世紀のルネサンスに始まる。
ヨーロッパ世界がキリスト教一色になってしまったことへの反省から、古代のギリシアやローマの輝きを再評価し、文化的多様性を取り戻そうと考えられた。
それが近代にはナショナリズムと共鳴し、19世紀前半に、ギリシア文化をヨーロッパの起源と考える「ギリシア愛護主義」へと発展。ギリシアをイスラム勢力(トルコ)からわれわれの手に取りもどすぞー、となったわけだね。

このように、古代アテネイは、近代ヨーロッパ人の手によって呼び起され、
いま改めて、2000年間のブランクなんぞなかったかのように生き生きと、わたしたちの目前に提示されている~のだ。
ヨーロッパ文明の源としてよみがえったアテネに対して、現在の新しい60万人のアテネ市民は、どれほどのオーナーシップをもっているんだろうなあ?


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