日本家屋の美学をみた。自然の中に佇む……的な??

友人が週末用に古民家を借り始めた。

わたしは、もともと古民家が大好きで、学生の時などは、三渓園にあるお気に入りの合掌造り家屋の縁側でボーっと半日すごしたりしていた。
お寺も好き。浄妙寺・喜泉庵の縁側で、日本庭園を眺め水琴窟を聞きながらボーっとするのもすごくいい。

こんな感じで、わたし、日本の伝統建築との付き合いはそこそこあると思っていたけれど、甘かった。日本家屋の神髄について、何もわかっていなかった。


縁側

外でも内でもない縁側空間が大好き!
友人宅は縁側だらけ~~😊
縁側の陽だまりのなかで、寝ころんで本を読むとか、贅沢すぎる~~。

カラクリ屋敷なのもよい。
縁側の雨戸や部屋の雨戸など、建付けの悪い雨戸たちは、それぞれ何らかの方法でガタガタと収納できる。(元に戻せるか心配なほど、ガタピシ)

それぞれ規格品ではないだね。それぞれのスペースに適した雨戸の収納方式が、都度考案されてきたのだと思う。たぶん。
入居の日、それぞれのカラクリを解明しつつ、雨戸を開けていく作業がとっても楽しかった!

これだけのガラスでおおわれているのだから、古民家には雨戸が必須だね。
雨戸の必要性がよーくわかった。

ここまではそれほど珍しくない話。やっぱり古民家っていいな~という感じ。




自然と一体

ズキューンと心が打たれたのは、一夜明けて、朝に目覚めたとき。
外の気配の中で目覚めたのよ。キャンプの時みたいな感じ。
鳥の鳴き声が聞こえるからだけじゃない。絶妙な隙間風も功を奏しているのかも。
外界の生命力を五感で感じているみたいな、「あ~気持ちいい」という清々しい感覚。

眼を開けたら、さらにズッキューン。
布団の中から見上げた縁側(裏)の向こうに、ドカーンと大きな外界があった。
テントの場合は外が見えないけど、日本家屋は外が見えるんだよ~。キャンプより、もっとさらに清々しい。

起きている目線では気が付かなかったのだけど、
寝ている目線だと、雪見窓に入ってくる外界の量がどーんと大きい。緑と空が迫ってくる感じ。
つまり、家の中に居ながらにして、外界を強く大きく感じることができるんだね。

シカゴで見に行った、ファンズワース邸を思い出した。
ミースは、こういう空間を作りたかったのかな~~と。勝手に想像。
しょせん人間は自然を支配したがる存在でしかありえないのだけど、
出来るかぎりにおいて、自然を尊び、謙虚に自然のなかに佇みたいという気持ちかなと…。(建築思想は知らないが、勝手に想像してみた~)




外界を切り取る効果

外界の自然を享受するにあたり、
遮るものなく大きくあけ放つという縁側方式も良いのだけど、

あえて外界を切り取ることで、外界の奥行きや世界観をあえて際立たせ、自然をより強く感じさせるという効果も、このたび初めて実感できた。
これは、床に座った目線じゃないとわからない世界観なのだ。
写真でうまく表現できていないのが残念だけど…、
おそらく庭の全体像が見えないがゆえに、
外の自然がより広く、より大きく感じられる気がする。

人間も、あけっぴろげで隠し事の無い人よりも、
ミステリアスで想像の余地を残している人の方が、ちょっとお高く感じるのと一緒かな~~??

今後、お寺にある丸窓も、床の目線にスタンバって、グイっと想像力を働かせることで、
もう少し深く味わえるようになった気がする。たぶん。

まとめ

博物館の古民家を訪問するときは、あまり寝転ぶことはなく、かつ朝や夜の気配を感じることもあまりない。
でも、そこで寝起きし、昼夜を通して生活することで、初めてわかる建築ディテールの味わいって多いんだね。

頭でわかっていたつもりだったところの、
日本家屋の、自然の中に佇む美学みたいなものを、このたび体で納得した。

それと同時に、わたし達が日本家屋の美学を捨てて文化住宅に移り住んだ意味も理解した。
縁側だらけの家は寒いし不便。普通の現代家屋で、隙間風を防ぎ、家具を置き、椅子の目線で生活をする方が、日常的には楽なのね~。