ブラナマケ、虎ノ門をくぐりたい!

虎ノ門駅を使うたびに、つねづね胸に抱いていた夢がある。
虎ノ門をくぐりたい!

虎ノ門はどこにあったのだろう?
江戸時代、ここはどのような景観だったのだろう?と密かに想像していた。

とうとう、この度、夢を果たすことができた!
この辺りは思いのほか区画が変わっていて、なんとなくズブズブだけど、
区画が様変わりしていることを知れたことも含めて、ある種の達成感あり。


江戸時代の虎ノ門

虎ノ門は、ご存じ江戸城の外堀にあった城門の一つ。

数ある門の中で、なぜとりわけ虎ノ門に執着するのかといえば、
たぶん駅名となっているために意識されやすく、また個人的に虎ノ門駅の利用頻度が比較的高いからだと思う。それだけ~。

Wikipediaからの孫引きですが…、虎ノ門の江戸時代のお姿は、こんな感じ!
平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」より。
わくわくする~~。お堀があって城門があるよ。(当たり前!)
橋の左側が城外、右側が城内。
門の向こう側には、大番所があって、門番担当の武士が詰めていたんですね。
「大江戸今昔めぐり」アプリより

現在

この橋と城門が、現在のどのあたりに位置していたのかと言えば…、
おそらく、写真の「2」の部分。
国道一号線(桜田通り)のど真ん中。中央分離帯!ひえ~、危ない。くぐれるのか、わたし?
この地図は、わたしがつくったものなので、ちょっとあやしい…
現在の google map 航空写真に、かつてのお堀の位置を青で示し、周辺に点在する史跡を丸で囲みました。

単純に、外堀通りがお堀の跡だと思っていたのですが、全然違った。
この辺りはなぜか、抜本的な区画整理が断行されたのね~。
お堀が随分とクランクしているので、外堀通りは、もう少し緩やかに通したということかな~?

番号にそって史跡を辿っていきましょう。ブラナマケ~。




虎ノ門の碑

虎ノ門へは城外からアプローチしたい。出発点は城外にあたる「虎ノ門の碑」から。

虎ノ門の交差点、エクセルシオールの前にブロンズ像の虎が鎮座しています。
この碑はかなり最近、昭和に設置されたようです。

「大江戸今昔めぐり」アプリによると、江戸時代のここは御庭番の御用屋敷だった。
外堀通りに面する店、すなわちエクセルシオール、カフェ・ド・クリエ、オカモトヤ、……は皆、この御用屋敷の跡地に建てられたんですね。

御庭番というのは、「レレレのレ~お出かけですか~」といった庭掃除人ではなく、それにみせかけたスパイ、諜報機関だったようです。江戸幕府のCIAだな!

お堀を渡る

スパイの館を後にして、お堀を渡りましょう。
本来なら橋があった場所、すなわち国道一号の中央分離帯をまっすぐ歩いていきたいところですが、さすがにそれはねえ……。危ないし…、怒られそうだし…。
泣く泣く、お堀をじゃぶじゃぶと渡ることに。

首都高速道路の本社ビルは、みごとにバッチシ、お堀の跡地に建てられています。
そうここはお堀の中。じゃぶじゃぶ。

虎ノ門をくぐる

肝心の「虎ノ門をくぐる!」は、難しい、難しすぎる!

アプリが指す城門の位置はこの辺り☟。
中央分離帯に入り込んで歩いたら、怒られるよね~~~。だめだよね~~。

仕方がないので、かつての門よりお城側に当たる、横断歩道の中央部で「虎ノ門をくぐる」の儀式を代用することにした。
門をくぐって、城内に入ったー!!(ことにする)



外堀跡 地下展示

城内に入って、日向内藤家上屋敷にお邪魔しま~す。

ところで、事前に文科省に電話をし、日曜日でも外堀跡石垣の展示室に入れるのか尋ねた。
すると電話の向こうでは怪訝な様子。何言ってるの?勝手に見たら、的な。
電話対応の意味が、行ってみたらよーくわかった。

それは展示「室」ではない。入口も屋根もない。本当に、「勝手に見てください」という代物だった。
文科省の敷地内にお堀の石垣が残っている。見学しやすいように、ちょっくら階段を掘っておいたから、よかったら見て~。一応、説明パネルも数枚貼っておくね~。ってかんじ

現在の地図にお堀がプロットされている図。現在地はアプリの位置と一緒!
そうそう、このあたりでお堀がクランクしているんだよね。

江戸城の外堀は天下普請という方法で建設されたそうです。
現代であれば、総理官邸や皇居の塀を作る際、全国民から集めた税金で費用がまかなわれます。
他方、江戸時代には、江戸幕府が諸藩に恒常的に税を課すほど集権的ではなかった。
その代わり、諸藩に公共事業(公共というか…徳川家のための私的事業?)を分担させる程度には強権的だったという理解でよいのかな?たぶん。
ということで、お堀の普請を担った藩は、それぞれ自らの家紋をお堀の石に刻んだそうです。
家紋を探したけど…、見つからなかった。
この史跡の区間は佐伯藩毛利家の分担だったようですが、これは毛利家の家紋(丸に矢筈)じゃあないよな~~??どう見ても。

工部大学校跡

工部大学校跡は、建設が明治4年。先述の文科省同様、日向内藤家上屋敷跡地に建てられたもの。

ちなみに、虎ノ門が撤去されたのが明治6年ということなので、
工部大学校と虎ノ門の存在は、2年間だけ重なっているのね。
江戸時代の建造物ではないので、軽く飛ばしましょう。



溜池櫓台

溜池櫓台はトリッキー。
過去と現在がまったくリンクしないため、頭がこんがらかる。

もう一度こちらの地図をご覧ください。左下の5番が溜池櫓台。

現在の外堀通りを渡ったところ、お城の方角と反対側にあるのだから、ここは城外側だと思うでしょう。
ところがどっこい、これは城内側なんだよね~。

ほら、鶴のマークの日向内藤家上屋敷の、角っこがこれ。

霞が関コモンゲートから歩道橋を渡る道のりは、
気分的にはお堀を越えてるような気になりますが、全然違う。
ただ屋敷内の庭園(?)を横断しているだけ。
歩道橋を渡り切ってからがお堀、じゃぶじゃぶ…。頭のなかがヤヤコシイ…

まとめ

虎ノ門周辺を歩くといつも、なにかもどかしく感じていた。
虎ノ門はどこにあったのだろう?このお堀の跡はどのあたりだろう?的な。
なので、いつかじっくり史跡を辿ってみたいと思っていた。

この度、史跡を辿ってみたことで、わたしの不満の理由がよ~くわかった。
このあたりは、かつての区画と、現在の区画の連続性がほとんど無し。わからなくて当然なのだ。
私が思うに、クランクではない、ゆるやかな外堀通りを建設したことで、
このあたりの区画がまったく変更されてしまったのだと想像する。ザンネーン。

しかし、それがわかったことで、すっきりした。
虎ノ門を歩くときに、過去の面影を探す必要はないんだ、無理なんだ。
虎ノ門は、切ったり貼ったり整形しすぎちゃって、まったく別の顔になっているわけね。