鎌倉歴史文化交流館、のんびり優雅に学べる遊べる!

以前、
鎌倉の歴史的重要性を味わいきれずにもどかしいという、
おバカ丸出しの記事を書きました(鎌倉大好き! でも少し物足りない気がするのは何だろう??)。

このたび、鎌倉の歴史と交流する館、その名も「鎌倉歴史文化交流館」を訪れ、
勉強不足のこの身にも、鎌倉の歴史が少~し入ってきたぞ!



はじめに

この、鎌倉の歴史と交流する館は、2017年5月にオープンした。
そうそう、こういうのを待っていたんだよ===!!

さらにこの館は、ただの博物館ではなく、
ハイソな別荘文化(モダン建築)や、金持ちメンタリティについての考察や、裏山散策など、多様な要素が入り混じっており、たいへん興味深い。楽しい!

1500円くらいの価値はあると思うのだけど、
なんと、入館料300円の良心価格。マストゴーだね!

アプローチ

歴史文化交流館へ向かう道すがら、ハイソな鎌倉文化をすでに堪能できる。
鎌倉駅から、あのハイソなスーパーマーケット、紀伊国屋に向かい、その奥にある高級住宅地へと入っていく。

google map に導かれながら、入り組んだ坂道を右に左に進む途中、
立派な塀に囲まれた、でっかい家たちをみながら、
「どういう意味?」「なんだこれ?」と言わずにはいられない。
こんな良家に嫁に来たらさぞかし大変だろうと、余計な心配までしてしまった。

それらリッチな豪邸群の親分が、旧赤尾家別邸の、歴史文化交流館である。
リッチな豪邸に入れるだけでも、すでに十分楽しい😙




建築

歴史文化交流館はもともと、旺文社の創業家、赤尾家の邸宅だった。
2007年の建て替え時には、世界的な建築家であるノーマン・フォスター氏が設計をした。

現在の建物は、バリアフリー化などで多少手を加えているものの、
極力、フォースター氏の設計のままを留めているらしい。

これが私邸の廊下だよ。博物館の廊下ならわかるけど(いまはそうだけど…)、
これが俺んちの廊下って、ありえな~い。
壁や床の素材にも贅を尽くしているらしいよ、ディテールは忘れちゃったけど…。

この部屋はもともと、ダイニングだったんだって。(リビング・ダイニングかな?)
窓が大きくて、庭の景色(谷)が丸見えで、光が入って、優雅だね~~。

別邸へのアプローチもおっされ~。

キリがないのでこの辺でやめておきますが、
個人宅とは思えないハイソな建物。これが金持ちの別荘つうものなんだ====。ほ===。

公開はしていないけど、地下にはプール、屋外にジャグジー、屋上にBBQ広場がある。
さらに、庭には歴史的やぐら(洞窟)の景観があるし、敷地内の裏山には散歩道が設けられ、山の上から鎌倉が一望できます。裏山も俺んちって…。


やんなっちゃうなあ~。そんなリッチな生活があるんだな~。

そんな大豪邸がなぜ鎌倉市に寄贈されたのか、その経緯にはいろいろありそうな予感。
金持ち世界の動機や意味付けはまったくわからないのだが、
赤尾家に関しては、薬物やら、反社会勢力やら、嘘か誠かわからない、あやしい噂が書かれていますなあ。

このあたりの土地・建物は、赤尾家とセンチュリー財団あたり(その他にも?)が所有していたのだけど、
赤尾家分の2000坪の土地を市が購入するという条件付きで、
センチュリー財団分の土地2500坪と建物を、15億円の助成金つきで市に寄贈されたとか。
センチュリー財団というのは、旺文社のCSRと考えてよいのか、節税対策なのか、創業者の美術コレクションや資産を保持するために設立された団体らしい。

旺文社側と鎌倉市の間に交わされた資産の売買や寄贈の条件がどういう意味を持つのか、美しい話なのか、ドロドロした話なのか、小市民の私にはさっぱりわからないが…、
部外者であるわたしたちが300円ポッキリでこんな豪邸を見学できて、さらに鎌倉の歴史と交流できるのは、とてもよいことであーる。二重丸🙆

プロジェクションマッピング

わたしが最も期待していた展示はこれ。
プロジェクションマッピングの立体地図!


頼朝が幕府を建てた頃の鎌倉。大倉御所が赤い点で示されている。

それから、鶴岡八幡宮を移転させて、若宮大路を建設し、都づくりが始められる。


道路が整備され、武家屋敷や寺院、庶民の住居が次々と建てられていったそうな。黄色い部分。
プロジェクションマッピングはこんな感じで進みます。

ちなみに、別情報によると、鎌倉中(ちゅう)とよばれる中心地には、最大で10万人もの人が住んでいたとか。中世の大都市である。




疑問が深まる

プロジェクションマッピングのように、町の全体像を見せてもらえると、歴史がわかりやすくなるよね。
願わくば、アクロポリス博物館のジオラマように(☛キラキラの都市国家アテナイ)、
時代ごとの町の発展経緯をつぶさに見せてくれると嬉しいな~~。
源氏の時代と、北条氏の時代と、鎌倉公方の時代と、寒村の時代、それから観光開発されて以降の時代。建物の配置や密度などがどんな風に変遷したのか見てみたーい。
そのうち、ぜひ、お願いしまーす!!

以上のように、鎌倉の歴史についての理解が、少しは深まったけど、
やっぱり私には、時代ごとの変遷とか、町の構造とかが腑に落ちていないんだよね。

さらに新しい疑問も追加された。
鎌倉公方が古賀に移ってから、つまり戦国時代と江戸時代には、鎌倉はただの寒村へと衰退した。というのはわかった。
天皇も将軍も大名も(?)いないのだから、寒村化しても不思議ではない。

幕末の鎌倉の大通り。貧乏くさ。ただの宿場のように見えるね。

明治初・中期の、大倉幕府があったところ。まさに寒村だ~。

都が衰退したことはよーくわかったが、
ただの寒村になったという意味では、たとえば飛鳥京だって負けちゃいない。
それでもなお、鎌倉の町の構造的変遷が、わたしのような不勉強なものには、より伝わってこない理由はなんなんだ~~!大和と鎌倉では、何が違うんだ??

ちょっくら浮かんだ仮説として、
鎌倉のまちは、近代の新しい意味付け、つまりハイソな別荘文化に上書きされてしまい、
古都の記憶が消し去られてしまったのか???

わからないことを整理して、も一回、歴史文化交流館に挑まなきゃダメだな。




扇ヶ谷と古我邸

歴史交流館が建つのは扇ヶ谷(おうぎがやつ)と呼ばれる地区。
もともと源氏の地であり、鎌倉時代以前には頼朝の父、義朝の屋敷があった。
室町時代には鎌倉公を補佐する管領(かんれい)であった扇ヶ谷上杉家の屋敷があった。
古くからハイソな土地柄なのだ!
(江戸時代、すなわち寒村時代は、ただの田んぼだったかもしれないけど…)

扇ヶ谷には、赤尾家の豪邸(現歴史文化交流館)のほかに、徒歩2分くらいのあたりに古我邸なる洋館が建っている!

庭がひろ~~~い。ザ・別荘!!
もともとは、三菱財閥の専務だかの別荘だったそうな。荘 清次郎という方。
濱口雄幸や近衛文麿ら政治家が借家していたこともあったりして、
昭和12年に、古我貞周という実業家が取得して以来、古我邸と呼ばれるらしい。

三菱財閥と言えば、鎌倉歴史文化交流館がある土地も、赤尾家の前は、かの岩崎家の所有だった。
なにやらややこしくなってきたが、
なにしろこの辺り、日本でも指折りの金持ちが、売ったり買ったりしているんだな。

この古我邸は、フレンチレストランとして、2015年から公開されている。
レストランはコースのみなので、まずは気軽にカフェに行ってみようと、とってもとっても楽しみにしていたのに======、
訪れた日は、ウェディングパーティで貸し切りだった😭
小じゃれた庭で、スパークリングワインとケーキをいただこうと、メニューまで決めていたのにいいいい。たいそう悔しかったよう。


まとめ

鎌倉の歴史と交流する館、鎌倉歴史文化交流館はかなり満足度高し。
鎌倉の歴史と交流するだけではなく、
鎌倉の、より具体的には扇ヶ谷という歴史的にハイソな地区を垣間見ることもできた。
次はしっかりと、古我邸も攻略したい!

おっ、本文で言いそびれましたが、歴史文化交流館、土曜日11時からの展示解説も楽しかった。初回にはぜひ参加すべし!