北澤八幡神社例大祭、年に一度の大イベント! この祭、意外と新しかった。

今年もやってきました、この季節!



すごい迫力!

北澤八幡の例大祭は、誰が言ったか知らないが「山の手髄一」といわれるほど、たしかにすごい!!
八つの睦会が競って神輿を宮入させる姿などは鳥肌もの。カッコよすぎる!!

茶沢通りを連合で渡御。大迫力!

神社の石段を神輿が順番に登ってくる!すごい!

さぞかし歴史が古いのだろうと調べてみたところ、あれ??それほどでも。
そっか、このあたりに人が大勢住み始めたのは、昭和になってからなのか…



北澤村の歴史

北澤八幡は室町中期に、世田谷城主の吉良氏によって鬼門封じのために勧請されたようですが、そのころは家が5軒くらいしかなかったとな…( 北澤八幡秋まつり実行委員会

5軒のイメージがわかないが😥、江戸後期でもこんな感じ👇
「北澤粟島社 池尻祖師堂」と書いてあるので、上半分が森巌寺と北沢八幡あたりらしい。
なんだかよくわからないが、たしかに人間よりタヌキの方が多そう。
江戸名所図会・八 39コマ (NDLデジタルコレクションより) 

大正時代になっても、やっぱり家がなーい!パラッパラッとちょっとだけ。
開墾のために土着した吉良氏家臣の末裔かな?
この頃は、農業用の牛車を山車として装飾し渡御していたそうな( 北澤八幡秋まつり実行委員会
「下北沢文士町文化地図 改定五版」より抜粋
下の方、矢印の先が八幡さま、その左側に森巌寺。

上の地図が作成された直後、関東大震災のあとに、被災者が都心(下町)から移住してきて人口が増えていったようです。
そして下町からの移入者が、この地で江戸の祭りを再現していったわけです。
昭和8年に「新野睦」(下北沢駅周辺)が神輿を作り、それに負けじと昭和11年に当時の北沢4丁目の睦(現「東北沢睦」と「四南睦」。東北沢駅と池ノ上駅周辺)が神輿を作ったらしい( 北澤八幡秋まつり実行委員会
小田急線の開通が昭和2年なので、八幡様がある北沢の南部ではなく、北沢の中央部である、駅周辺から人口が増え、神輿がつくられていったんですね。

「北澤八幡宮例大祭八睦神輿渡御巡幸図」2013年度

八つの睦とそれをまとめる惣町睦の、現在の体制がつくられたのが昭和45年頃。なんと、金子ノブアキの実家が会長(なんの会長だ?)を務めていたときのことらしい。四谷の須賀神社の氏子組織がモデルになっていたとか。
この八睦連合体制が完成してから、各睦会が神輿を作り、今のように盛り上がってきた、らしいです( 北澤八幡秋まつり実行委員会)。
つまり、「山の手髄一」といわれる壮観の連合渡御は、昭和後期以降に成立したのですね。



氏子地域

ちなみに、北澤八幡の氏子区域(上地図で色の塗られた範囲)は、時代ごとに呼び名が違うが、「北澤村」「下北澤村」そして区画整理のあった昭和39年以前まで「北沢」地区と称されていた範囲、だと思う。
現在の地区名称でいうと、「北沢」と「代沢」を足して、飛び地だった旧「下代田」を引いた領域。
なお、上北沢の駅周辺は「上北沢」なので、とりあえず「北沢」や「下北沢」とは分けて考えよう。

現在の睦会は昭和39年以前の番地がおおよその母体になっているみたいな感じ~
睦会の名称は、古くからの土地の名称や(大正地図👆上方の「新屋敷」など)、昭和39年以前の番地や(北沢1~5丁目)、そして現在の番地(北沢1~5丁目、代沢1~5丁目)などからつけられています( 北澤八幡秋まつり実行委員会

ということで北沢八幡の各睦会は、比較的歴史の浅い地域集団ではありますが、
駅の近くは商業を営む人が多く、比較的古株。
駅から離れると住宅地。しかも相当高級な住宅地もあり。
おのずと、睦会ごとの性格が出てくるし、それぞれ半纏のガラも違っていて、チームごとの連帯が感じられます。

デュルケム先生が言うように、祭りが社会を形成する!
一年に一度の集合的沸騰によって、それぞれの睦会が自分達のまとまりを確認し、かつ連合体としての北沢が凝集性を高める。
この祭りがあることで、旧下北澤村はますます生命力を増している感じがする😀

さてさて、昭和の山の手住民がつくりあげてきた北澤八幡の連合祭り。
江戸の町人がつくってきた祭りとは一味違う、モダンな粋を今年も満喫しましょ=!!
(👉北澤八幡神社例大祭 2018。お神輿をたっぷり堪能した