恵比寿にある東京都写真美術館で、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』という映画を見ました。
デザイン世界の友人に誘われ、美しいものを見るための映画だと紹介されていた。
いんや、芸術はよくわからないが…、それだけではなく、歴史的・文学的にたいへん充実した作品でした。
サリーちゃんのパパに似たかっこよい貴族、サリーナ侯爵or公爵?が主人公です(☟Blu-Rayのジャケット)。
わたしは、イタリアの歴史について、ましてやシチリアの歴史についても完全アウェイですが、
この映画は、イタリア版の幕末ストーリーだと理解しました。前近代から近代へのシフトが主題ってこと。
サリーナ侯爵が言うように「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る」はなしなのです。
山猫はサリーナ侯爵の家紋で、獅子は王様。両者は古い時代の担い手。
新しい時代の担い手、ジャッカルはアンジェリカの父に象徴される金もうけの得意な新興ブルジョアジーだろうな。羊は上院議員になってくれと言ってきた中央官僚みたいな人かな?それとも小ブルジョアジー?
なにしろ、身分制社会が崩れ、自由で民主的な社会へ移行しつつあるのです。
滅びゆく身分制・封建制社会を象徴するのがサリーナ侯爵。
新しい民主的・資本主義社会を象徴するのがアンジェリカの父とアンジェリカ(写真☝の女性)。
タンクレディ(写真☝の男性)が両者を媒介する、新しい時代のハイブリッドな貴族を象徴している。
タンクレディは貴族ですが、新しい時代に必須の特質である貪欲さや自由な快活さを備えています。なぜならば、貧乏に育ったから。
サリーナ侯爵は、決して、新しい時代の貪欲さを好んではいないし、粗野で下品な新興ブルジョアジーをむしろ見下している。
しかし、時代の流れをしっかりと捉えており、次の時代を担うのはそういう人たちであることをよーく理解している。
サリーナ侯爵は、しかし、自らが貪欲な新しい時代に順応したいとは思っていない。かれは古き良き高貴をまとったままで時代とともに滅びゆく運命を選択している。
そのかわりに、ある種の貪欲さを備えたタンクレディに次の時代の貴族像を見出し、立身出世の道を準備し、バトンを渡すのである。
新しい貴族のハイブリッドな婚姻、
つまり甥のタンクレディと、粗野な新興ブルジョアジーであるアンジェリカとの婚姻、
家柄と経済力のタッグについて、
「由緒ある家系」は「終わりではない。始まりなのだ」とサリーナ侯爵はあたかも自分に言い聞かせるように苦しそうに言い放つのであった…。
新しい時代を嫌悪しつつ、しかし苦悩しながらも受け入れる力量を持つ。
あまりにも冷静に時代を見据え、あまりにも遠くを見通し、あまりにも気高い。
それがゆえに孤独で、消耗し、大きな虚無感の中にいる。最後の「真正」貴族。
そんな素敵貴族が描かれていました。サリパパとてもかっこよかった。
もちろん、同じ主題をブルジョアジー目線、あるいは貧困層目線から描けば、異なる貴族像が見えてくるんだろうけどね。
近代社会成立期の貴族のありよう、そして新興ブルジョアジーとの関係について考えることのできる豊かな文学作品でした🙆