NHKの「東京ブラックホール」にザワザワした

ゴールデンウイーク中のとある朝に、たまたま流れていたドラマに見入ってしまった。
山田孝之主演の「東京ブラックホール」というドキュメンタリー・ドラマ。
バブル時代の話である。

私が理解したところをまとめると、バブル期とは、ゴールの札束を掴まんと一斉に走り出すかけっこのようなものだったのだ。
そんな時代のゲーム・価値観の中に、わたしも生きていたんだな~、と気づかされ、ザワザワしたの巻。


ドラマの概要

ドラマの正式名称は「東京ブラックホールIII 1989-1990 魅惑と罪のバブルの宮殿」。
「東京ブラックホール」シリーズの第3弾らしい。

2022年の現代でトラック運転手をしている山田孝之(タケシ)がバブルの時代にタイムスリップして、
バブル時代の若者カップルである ひふみワタル と交流するお話。
ひふみとワタルは二人ともキャバクラで働いている。

この3人がそれぞれに、その時代をうまく象徴するんだよね。
わたしにとっては、トラックもキャバクラもまったく縁のない世界であるにもかかわらず、
3人とも心優しく懸命に生きている好青年として描かれているから、感情移入しやすいんだろうな。

バブル時代には、猛烈に羽振りの良かった人たちもいるけれど、
貧乏な人だってたくさんいた。ひふみとワタルは後者のグループ。

バブル時代と現代との違いは、
そうした貧乏な若者でさえ、きわめて肉食系の貪欲なメンタリティをもっていたということ。

「ダイヤモンド」と「世界に一つだけの花」

現代の若者 と バブル期の若者の違いは流行歌に象徴されていた。
タケシが、ひふみとワタルに「世界に一つだけの花」を歌ってきかせると、
優しい彼らは聴いてくれるのだけど、まったく響いていない。

オンリーワンってなに?ナンバーワンじゃないと意味ないじゃん。
といって、プリプリの「ダイヤモンド」をレコードでかける。
しかも、レコードの針を戻してリピートさせるほど「欲張りなのは生れつき  パーティーはこれから」のくだりに共感している。

バブル期の若者にとって、生きることはパーティ=勝負なのだ。
一つの成功モデルに向かって、皆が突き進んでいる。
それぞれの価値観や生き方がそれぞれに認められるのではなく、一つの成功モデルを基準として勝敗が決められるゲームである。
「成功」の勝敗は、どれだけ金を儲けたかで決まる。
一定程度の金をもち、ブランドを身にまとい、高級な乗り物を操り、そうした者として認められることをゴールとして、戦う勝負なのである。

猫も杓子も札束でキラキラと輝く東京を目指した。東京一極集中。
「田舎」および「田舎者」は軽蔑され、方言は封じられていた。
(今では「田舎暮らし」がクールといわれ、方言ももてはやされているけどね。時代の価値は変わるのだ)

誰もが一番になりたい。戦いたい。今より良くなりたい。成功したい。認められたい。という野望をもち、それを信じて突き進めた時代なのだ。
リゲインを飲んで戦い続け、
勝者のしるしとしてクルーザーやセスナをもつ。
夜の店も「成功者」を選別し、それに満たない貧乏人や田舎者を排除する。

このように、
バブルの恩恵にあずからない貧乏な若者たちも、現代のような諦めモードなのではなく、
あちらの世界へのし上がらんと、あくまでも肉食系なのだ。
皆がオンリーワンよりナンバーワンで、貪欲に競い合う世界。それがバブル期である。



女性の解放?!

この勝負は、意外にも、女性に有利であった。
社会はいまだ完全な男性優位であるにもかかわらず。いや、だからこそ。

男性は自分の能力でのし上がっていくしかないのだけど、
女性は、成功した男に所有されるものとして、あたかもブランドもののアクセサリーや高級車のごとく、自己の女性としての商品価値を高めることで、比較的容易にあちらの世界に行くことができた。
プリティーウーマンの世界観である。

ドラマの中でも、ひふみが、ワタルと暮らす貧乏なアパートを去り、
成功者である土地ころがし男の彼女として、あちらの世界に飛び立つ。
きれいな服を着て、自家用セスナで遊び、パーティー(=勝負)を満喫する。

ひふみはタケシに、雑誌『anan』の「セックスできれいになる」と書かれた表紙を見せて言う。
「私は、私の体を自由にできる。仕事も体も。女はやっと人間になれた。私…を踊らせるのは、お金じゃなくて自由なんだよ」

うほ~~~~!そうきたか!!
繰り返すが、これは現代的に言う女性解放ではない。いやその反対ともいえる。
女が、男と同様の「人間」として尊重されることを要求するのではなく、
「男の所有物としての女性」枠でバブルの勝負に挑むことを高らかに宣言しているのだ。
そしてたしかに、ワタルに比してひふみは完全勝利をおさめた。自由に空を飛ぶ鳥のように。

その戦い方における現実の成功モデルとして「アッコちゃん」という女性が実際に登場し、インタビューに応えていた。
川添明子さんといって、私は知らなかったが、有名なかたらしい。(あの、バブル価値のシニカルな信奉者である林真理子氏が彼女を題材にして本を書いているらしいよ)
アッコちゃんの話の「ナルシスホイホイ」というくだりが面白かった😆
男の自慢話を聞くのが好きで、バブル勝者のナル男にモテモテだったらしい。
そりゃあモテるわ。
美しく凛としていて、たたずまいが所有欲をくすぐる高級アクセサリなだけではなく、自慢話も喜んで聞いてくれるなんてねえ。

ナンバーワン vs. オンリーワン

まとめると、このドラマは、
現代の若者と対照することで、バブル期の若者の価値観・世界観を絶妙に描き出していた。
バブル期の若者は、目の前にある札束を狙って、ヨーイドン!男も女も一斉に勝負していたのだ。
(現代でも、ゴールに札束があるならば、多くの人が一斉に走り出すだろうけどね)

かくいう私も、当時、その時代の価値観に強く規定されていたことを、このドラマによって再認識させられた。
札束をできるだけ多く持ち、あるいは持つ男に使ってもらい、豪勢に暮らし・遊ぶことを至上価値とする、バブルゲームのルールを意外とすんなり共有していた気がする(もちろん林真理子もよく読みましたよ)。
もっと大切な価値がいっぱいあることを頭では分かっていても、目の前のキラキラした札束世界によって目が曇らされていたのだろうな。
もっと冴えた目で、まっとうに成長したかった…😩

数十年前、その勝負から降りたときの解放感をはっきりおぼえている。
まさに「世界に一つだけの花」が流行ったころなのか、わたしのはかない仕事運や商品価値が空欠になったころなのか…、
もう戦わなくてよいんだ。と思った時、
生きる意味とか、自分の価値とか、自分のやりたいこととか、自分らしさとか、より自由に考えられるようになり、とても楽になったことを覚えている。
楽になりすぎて、金欠のプチひきこもりに落ち着いちゃったのだけど😆

バブル期と今を比較すると、やっぱし、
一つの価値観で戦うことを強いられる「ナンバーワン」世界よりも、
それぞれの多様な価値観を自分のペースで生きることが容認・推奨される「オンリーワン」世界の方が、私は好きだな。

しかし、どっちでもいいんだよう。
お金を使ってもらう女でも、自ら稼ぐ女でも、金に無縁な女でも。
自分の存在価値をセレブリティ(金や男)に求めても、理想ややりがいに求めても。
都会に価値を見出しても、田舎に価値を見出しても。

皆が、それぞれに、自分が良いと思う価値を追求し、それを公言し、尊重し合い、実現し、誇れるのがいいね。
まとめると、「多様性」万歳!!