東海道プロローグ:ブラナマケ、街道歩きを始めるぞ!

いつか古い街道を歩いてみたいと思っていた。
とりわけ中山道に興味があったのだけど、板橋とか埼玉とか、あまり縁のない町を探索するのはちょっと敷居が高く…、

埼玉方面に比すればガゼン地理感の豊富な東海道から始めることにした!

地図:山と渓谷社『歩いて旅する東海道』より
広重の絵:[野村]文紹 著『肖像. 2之巻』「歌川広重」国会図書館デジタルコレクション


旅のコンセプト

ただ宿場をめぐり歩くのはつまらないので、なにかわかりやすい目標がほしい。
そこで、浮世絵(広重の五十三次)の現場を写真に収めることを目標とすることにした。
いわゆるオリエンテーションですね。

そうすると、その場所が江戸時代はどんな風景だったのかがわかるし、
浮世絵に描かれている人々の表情や行動から江戸時代に街道を歩いた人々の世界観にも触れることができるかもしれない。一石二鳥!

そして、街道歩きと言っても……、
すべての道程を歩き続けるつもりはない。それは無理😵

車や電車で宿場を順番に訪れて、宿場あたりをブラブラ歩くという趣旨。
その際、
  • 浮世絵の現場を写真に収めるのがマストで、
  • あとは、宿場や周辺の江戸時代のなごりを訪れる。
こんな感じで街道歩きを始める予定!
ただし、数年かけて京都にたどり着くか、はたまた品川や川崎あたりで終わりなのか、どこまでやる気と機会に恵まれるかはわからないのだ~~。
気が向いたときに、ブラリと街道歩きしま=す。

古い街道とは

欲を言えば、江戸時代の街道ではなく、
飛鳥時代の街道を感じたいのよ、わたしは!

しかし古代の街道歩きは史跡上も情報量としてもかなり難しいので、とりあえず江戸時代にトリップするでお茶を濁す…

東海道や中山道は、もとをただせば律令制下の五畿七道駅路がベースになっています。
それ以前にも道はあったが、天智・天武期(668-686)に本格的に整備されたらしい。

国土交通省HP「道の歴史」より

七道駅路は飛鳥の大和政権、すなわち奈良(or 畿内)を中心に街道が整備されている。
五畿七道といえば、道路というよりは、行政区画のイメージが強いですね。
京都から地方に国司を送り、国(国司)>郡(郡司)>里(里長)というように中央集権を実施した。
古代にそんな中央集権国家を築けたとは、すごすぎてよく理解ができない。
それを理解したい、感じたいと常々思っているが、その話は置いといて…、

それとは別に、常々感じていた疑問がある。
江戸時代の中山道は、江戸から京都に行く道なのに、
な~ぜ埼玉に向かうんだ???絶対に反対方向じゃん!!!と、思っていた。

その答えは、江戸の中山道が、古代七道の東山道をベースにしているからですね。
それがわかったとき、すごく合点がいったわ。なーるほど。
東山道は京都と東北を結ぶ道。そこに江戸からアクセスするならば、たしかに西ではなく、北に向かうことになるわ🙆

五街道

さて、江戸の五街道は徳川家康の政策。
もちろん、奈良や京都ではなく江戸を中心に街道が整備されています。

日本史事典「五街道の覚え方」より

早くも1601年に伝馬制が敷かれ、1605年には街道の標準幅員や一里塚や並木の整備が定められている。
征夷大将軍に任じられる前(1603)、関ケ原の戦いに勝利した後(1600)すぐに街道整備に取り掛かったことから、家康にとって街道整備がとても重要な政策であったことがうかがえる。

今でいうと、トラック輸送や電車・新幹線の役割、ましてやインターネットもない時代なので、街道はe-mailや郵便の役割も果たしている。
それまでのように、それぞれの地域で大名が一定の領域内をほぼ独占的に支配していた蛸壺的な時代に代わり、広い領域をインターナショナル(=藩)に収める天下泰平の時代、すなわち幕藩体制を築くためには、街道は重要だったのでしょうね。

宿場は、東海道であれば53、中山道であれば69設置され(既存の集落が宿場とし指定されたり、新しく集落が作られたり)、
それぞれの宿場の構造や運営方法は幕府によって定められ、管理されました。

宿場には問屋場(といやば)という事務所が置かれ、村役人が宿場の運営に当たった。今でいうと、機関委任事務をやらされる村役場という感じだろうか。
彼らは、滞りなく人馬を調達したり、飛脚を管理したり、大名や役人や一般の旅行者を宿泊させる必要がありました。

宿泊所にはいくつかの種類があります。
本陣(ほんじん)は公家、大名、役人といった上級国民のための宿です。格式の高い書院造が認められていました。
反対に言うと、ただの旅籠は書院造をしちゃいけないのです。
江戸時代ってば、農民は傘を持ってはいけないとか、木綿以外の衣服を着てはいけないとか、なんやかんやネガティブルールがやたら多い時代です。

話を宿場に戻して、
本陣は上級国民しか泊まれないので、意外と運営が厳しかったらしいです。
上級国民がそれほど頻繁に宿場に来るわけじゃないので。

ただし、参勤交代とか、大勢のお偉方が来るときは、本陣だけでは足りないので、
脇本陣というのも置かれた。
脇本陣は、場合によっては一般ピープルを泊めてもよし。

一般ピープルは通常、旅籠(はたご)、いまでいう旅館に泊まります。一泊二食付き。
あるいは、木賃宿(きちんやど)というより安価な宿もありました。食材を自分で持ち込んで自炊。

ところで、宿場が設置され、宿泊所の整備等が義務付けられたということは、
反対に言うと、決められた集落以外は宿場業務を営んではいけないということです。
おらの村でも Airbnb でちょっくら金儲けしようかな…というわけにはいかないのよ。



江戸の旅行ブーム

まあ、こんな感じで宿場が整備されたことで、一般ピープルも安心して長旅に出ることができるようになりましたた。
江戸の旅行ブーム到来です。

わたしもちょっとお伊勢参りに行ってみようかしら、という気にもなるわけです。
宿場にさえたどり着けば、寝るところはあるし、食べるものもあるし、ケガをしても治療してもらえるわけだから、安心安心。
江戸時代の人は、女性でも一日40kmほど歩いたらしいです。うんげ===😖
つまり、江戸から京都まで2週間ほどで行ける脚力があったらしい。すごい

それでも、行って帰ってくるだけで1か月強、
悪天候で足止めがあればさらに旅行期間は伸びるわけだし、
その分宿代は嵩むし、その分働くこともできていないわけだし、
やはり旅行に行くというのは、一生に何回かの贅沢なイベントだね。

なにはともあれ、旅行が身近になり、旅行記がよく売れた。
われらが広重の「東海道五十三次」や、弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」はいわゆる江戸時代の旅行ガイドブックといえるだろうか。
ちなみに「膝栗毛」というのは自分の膝が馬(栗毛)の代わり、つまり「徒歩」という意味らしい。

わたしも旅に出る!

さて、わたしも江戸の人になったつもりで、江戸を感じる旅に出ます。
といっても、上述したように、
歩いて踏破するわけでもなければ、どこまで行けるかもわからないのだけど、
なにはともあれ、広重の絵を頼りに、江戸時代を探しに旅立つのだ!