鎌倉の物足りなさの正体がわかった!期待値が間違っていた~~

鎌倉に対して覚えるそこはかとない物足りなさを、以前せつせつと文章にした。

 鎌倉大好き! でも少し物足りない気がするのは何だろう??

このたび訳あって、丸2日間ほどかけて(ちょっとだけ…😅)、鎌倉について自力で勉強し、その物足りなさについて内省してみた。

鎌倉好きを標榜してかれこれ数十年…。ああ、そうだったのか==!!目からうろこ。
とうとう、物足りなさの正体がわかったよ~~~。



知っていたのよ。ああそれなのに

物足りなさの正体は期待値の齟齬だった!

古都鎌倉が上方ではなく東国の都であること、貴族ではなく武士の都であることは100も承知。いや、300%承知していた。
ついでに言えば、鎌倉が広い平野ではなく、狭い山中にあることも重々承知していた。

にもかかわらず、わたしはなにか、風流でちょっとハイセンスな中世の都を鎌倉に追い求めていた。
そして、京や江戸の都に匹敵する、立派な成熟した政治の中心地を追い求めていた。

その期待値が間違っていた==。
清和源氏の雅さ(のかけら?)や、室町以降に発展するワビサビの洗練された武家文化や、はたまた近代鎌倉の洒落た別荘文化を、中世の古都鎌倉に投影してはいけないのよ~。
時代や場所がごちゃ混ぜになっていたんだよ~~。

雅や洗練とは反対の、泥臭さ武骨さこそが、古都鎌倉のエッセンスじゃないか!!!
そう言われたら当然のこと、よーく知っていたことなのに、なぜかちゃんと腑に落とせていなかったらしい。そんな自分にびっくりだぜ。

清和源氏というよりは、東国武士のもの

古都鎌倉は、始まりからずっと、そもそも源氏というよりは東国武士団のものだった。

清和天皇の血を引く、朝廷と交渉しうる、つまり洗練されたイメージの源氏は、東国の政権にとっては、つかの間の旗印にすぎない。

二代目の頼家のとき早くも、源氏に対する東国武士団の支持は薄れ、さっさと合議制が始まり、そうかと思えばすぐに北条家の独占的政権となる。
わたしが待ちに待っている2022年大河ドラマの主人公が、源氏ではなく”北条朝”の始まりともいえる北条義時を主人公に据えるのは、鎌倉時代のドラマとして、まっこと正当なアプローチなのだ!

つまり、鎌倉=源氏ではない!鎌倉=東国武士団(とりわけ北条家)が正解。
鎌倉に対して、源頼朝やら清和源氏やら武家貴族やらを探しても、ほとんど何も出てこないのだ。

革命と泥臭さ

中世における「東国」と「武士」の意味を考え直してみよう。
雅で成熟した上方の貴族社会をひっくり返すためには、
それとは正反対の「泥臭い(田舎くさい)」「フレッシュ(未熟)」なエネルギーが必要だった。
それこそが、「貴族」ではなく「武士」、しかも「上方の武士」ではなく「東国の武士」の意義なのだ。

フランス革命の泥臭い熱量を思い起こせばよいだろう。
雅なルイ王朝、マリーアントワネットを全否定し、泥んこになって戦う大勢の市民たち。
そういった、虐げられたものの反逆、革命の熱量こそが、古都鎌倉に見出すべきエッセンスなのだ。

「風流でちょっとハイセンスな古都」の面影を現代鎌倉に見出せなかったことは、しごく当然のことだった。
中世鎌倉に風流なハイセンスなんてものは無い。無いからこそ、革命の担い手たる東国武士の都なのだから。




つかの間の東国

古代にヤマト政権が浮上してから、1000年もの年月を重ねて、上方に王朝文化・王朝政権が成熟していた。
その巨象に対して、東国の泥臭い熱量がエイヤーッと一撃をくらわしたのは、日本の歴史の中では重大な転換点であった。

しかし、新参ものの東国に比して、1000年の歴史を持つ上方の方がはるかに、文化的な基盤は強く度量も深い。
鎌倉時代の文化芸術と言っても、とどのつまり、上方で成立・展開したものが少なくない。いや、たぶんそっちの方が多いのではなかろうか。

若い東国の都は、文化的発信力は比較的弱く、政治的な求心力もギリギリだった。
150年後に、都はさっさと上方に戻っていく。
次に上方で政権を担うのが、奇しくも、またもや清和源氏。振出しに戻る。
中世において、「上方」の「王朝・貴族」の雅な存在感はやっぱし圧倒的だったのだ。社会はそう簡単には変わらない。少~しずつ。
(繰り返しになるが、東国武士の一撃はよく効いた。結局、上方貴族の影響力は徐々にしっかり弱まっていく)

要塞都市

つかの間の東国の都に、
いやつかの間ではなくてもあの場所に、
京の都のような整然とした広大な成熟した古都の面影を追い求めてはいけない。
古都鎌倉は一つの要塞都市。
山と海に囲まれることで戦に備え、外敵から身を守り、
所狭しと谷戸に暮らし、崖に横穴を掘って空間を拡張する。
そんな猛々しい生命力こそが古都鎌倉のエッセンスなのだ。
鎌倉歴史文化交流館の展示資料

まとめ

まとめると、すべてわたしが間違っていた。
歴史的重要性や知名度の偉大さに比して、そもそも鎌倉の都は意外と地味でやぼったいのだ。

貴族や上方へのアンチテーゼとしての、武士と東国の鎌倉時代。
頭では300%知っていたのに、ああそれなのに、

心ではなぜか、風流でちょっとハイセンスな、洗練された偉大な古都鎌倉のイメージを追い求めていた。
見つからないはずだ。物足りないはずだ。
源頼朝(武家貴族)のカリスマイメージや、
明治以降に登場した別荘文化に引きずられてしまった。
加えて、室町以降に成熟していく武家文化、洗練されたワビサビに引きずられたかもしれない。
そんなものたちは中世鎌倉にはないんだよ~!

でももう大丈夫。未成熟な片田舎こそが、古都鎌倉の意義であることを肝に銘じたぞ!
反対に古都鎌倉の泥臭い熱量には覚えあり。これでしっくり合点がいった。
今後、鎌倉で歴史に浸りたい時は、革命の担い手、東国武士団の泥臭い熱さの面影を追い求める!

中世の古都鎌倉を感じたい時に、源氏(武家貴族)と別荘文化とワビサビは禁止🙅