10月22日の即位礼正殿の儀は、テレビに張り付いて儀式に見入っちゃいました。
あえて神秘的に権威的に執り行われたらしいのですが、くやしいが、まんまとしっかり、時の政権に乗せられちまったあ。
一連の儀式を見終わった後、京都旅行一回分よりも充実した満足感と高揚感を味わいました😌
天皇制の存在や継続には、悲喜こもごも、賛否両論ありますが、わたしはやっぱし天皇制が好き!
天皇制については(も)かなり勉強不足ですが、いつものように果敢に、素人節で天皇制について考えてみたいと思う。
この度の正殿の儀は、場所が徳川家(大名)のお下がりっつうのはなんですが、
実際の皇族が、雅な装束を身にまとい、本当の儀式を遂行しているんだから、もうワクワクだぜ。
まるで紫式部にでもなったつもりで、どっぷり見入ったのはわたしだけではないはず。
そう、そこが重要!
1000年以上も前の日本人(大和人)である紫式部との一体感を味わえるほど、聖殿の儀は、時と空間を越えて、古今東西の「日本人」の共通性や連帯を感じさせるイベントだったのだ。(自身の祖先が実際に何民族であったとしても…。大多数の現代日本人は大和民族ではない…)
紫式部の時代の帝と、そして私たちの時代の今上天皇は、まったく別の存在ではなく、
血統を連綿とつなぐ(とされる)、一本の軸で直接的に繋がっている存在である(と信じられる)ことが肝。
少なく見積もっても1500年以上の時間軸をグイっと突き刺すのが万世一系の(とされる)天皇の存在であり、
そこに同様に関連付けられているという壮大な帰属意識をその時々の人々に喚起する仕掛けが、高御座であり、三種の神器であり、雅な装束なのです。
これはもう、壮大なフィクションです。
古事記の神話や血統うんぬんが、どれほど真実であるかはそれほど重要ではない。
重要なのは、歴代天皇とそれにまつわる神話や権威を共有し尊重してきた人々が1500年以上も存在し続けてきたということ。
言い換えると、その壮大なフィクションに一定の価値を認め、そこに自身の帰属を見出してきた人々が脈々と存在し続けてきたことが重要なのです。
これほどまでに多くの時間、多くの人間が、同一の物語(フィクション)を大切に共有し続けられたことが、ロマンなのです。(後述するように、それはガラパゴス的奇跡です)
正殿の儀は、その日本人の物語(フィクション)を強化するイベントです。
私の友人が、まんまと「日本人でよかった」と感想を述べていました。
こうやって、令和を生きるわたし達も日本人の物語に参加し、そういった多くの人々の参加によって物語はさらに強化され、この先も日本人の物語(大和の神話につながっている私たちという連帯意識)は続いていくことができるのです。
現代の天皇は、悠久の時を超える「日本人の物語」を維持させるための重要な支柱、まさに日本人統合の象徴の役割を果たしています。
その神がかりな役割が、その役割を担わされた生身の人間にとって、好ましい役割であるのか否かは議論のある所ですが。
しかしわたしは、生まれながらにこのネイションの一員ですから、馴染みの深い日本人ネイションのあり方にやっぱし愛着がある。旧体制を温存しながら都合よく近代化を取り入れてきた、アバウトな感じ。
今でも王制をとる国は、世界には27カ国あるそうです。
その中で、日本の王室はダントツの最長。1500年以上。
その次がデンマークで1000年強、次が英王室の1000年弱だとか( 歴史が長い世界の王室トップ10!)。
時間の長さだけではなく、王の権威の由来が、
ヨーロッパでは神から委ねられたものであるのに対し(王権神授説)、
日本では血統、神の子孫だから偉いということになっている。つまり、より神話的。プリミティブ。
近代の政治原則である政教分離から最も遠いところにある。
世界各地で18世紀~20世紀にかけて排除してきた、いわゆる「悪しき古き」アンシャンレジームを、
なぜだか日本人だけが、「封建的」とか「後進的」とか指摘されながらも、するりするりと批判をすり抜けて、王の権威を適宜うまく利用しながら、執拗に、現代にどどーんと存続させてきた。まさにガラパゴス!我が道を行く!
三種の神器の継承なんて、裁判所の判断を待たずとも、誰もが宗教世界のイベントだと思いますよね~~。(違うの?)
それを税金で執り行うってことは、国民全部を宗教儀式に無理やり動員していることになるんじゃないのかなあ。(違うの?)
そう、理屈上は(たぶん)いたって間違いだらけなんだけど、
そうであるにもかかわらず、その「時代遅れな」日本人の物語を、なぜかみんなで大事に共有しちゃっている。
ときどき、天皇制を廃止せよとか、デモがあったりもするけれど、そういった声が大多数にはならない。フランスや中国のように、王族と呼ばれる人たちを普通の人間に引きずり降ろそうとする勢力が広がらないのだ。
反対に、大多数の日本人は、王の権威を信じ、尊重している。儀式の最中に雨が止んで虹が出たら、「やっぱり天皇は神がかっている」とありがたがってしまう。
いやあ、実に素晴らしい。おそらく古墳時代や飛鳥時代とかわらない「王の権威」への心服。
古代の超プリミティブな政治制度を、現代社会に融合させ、さらに発展させようとする、日本人の独特なガラパゴス感覚こそ、世界の稀少価値、日本のウリではないだろうか。
聖と俗を二元的にきっちり分けて捉えるのではなく、
聖を俗の中にちょこっと取り込んでしまう。そのことで、俗世界の高度な緊張を相対化し、俗世界にちょっとした遊び(和みや安らぎ)をもたらすのだ。
その性質は、ポケモンやゆるキャラにも具現化されている。
俗世界にいるはずのない妖怪を、あたりまえのように俗世界に持ち込んで、その融合を思いがけなく成立させてしまう。
そのことで、俗世界に、ちょっとした遊び、柔らかさや緩やかさを演出する。
不遜な比喩で申し訳ありませんが、天皇制も同じ。
あえて特別な聖的世界に留め置いた天皇を、超近代化した現代社会に融合させることで、俗世界の要素だけではなしえない、次元を超えた統一感覚、つまり和を日本人ネイションにもたらしているのだ。
このように日本の天皇制は、日本人ネイションの、なにやらしぶとく払しょくされずにある、社会経営上の時代遅れな知恵や根底的な遊び心を反映している。
良く言えばしなやかな柔軟性、悪く言えば呪術への頑固な執着。
呪術からの解放、社会の近代化、すなわち民主化によって、世界(とくに先進国)は公正で自由な(あるいはそれを実現しようとする)社会を発展させてきた。
基本的にわたしは、こっちよりの思考回路にいる。強いて言えば左寄り。
でもさあ、厳密な論理的整合性・正しさによって社会を構成するのではなく、
良くも悪くも、次元をずらす遊びで社会を構成するのも、一つの知恵なのかな~とも思う。たまにはね。世界全部がそれだと困るけど…。
ご存じ、近代社会はいま見直されるべき時代にある。
経済の近代化は環境負荷を内包していたために、いま環境問題が危機的状況にある。
政治の近代化は世界全体に公正と自由をもたらすことができておらず、むしろ南北間の公正性をいっそう悪くしている側面もある。
なにか、ちょっとした、しかし深いところでの、方針転換が必要なのだ。
ヨーロッパ由来の「近代」に対して、別の味付け、つまり「厳密な整合性」をあえてずらす日本のてきとースパイスが、もしかすると、よい出汁になるかもね~~と、ちょっと期待。
ところで、儀式の中でちょっと心配だったのが、
高御座から天皇が、日本国民の代表としての安倍総理大臣を見下しただけではなく、
180余国からいらした賓客をもそのような位置に置いたのではと心配した。(違う?)
それについては、どの国からも批判が出なかったので、取り越し苦労だったのかも。
その賓客らは、それぞれに民族衣装などをみにつけて駆けつけてくださり、
その多様性と異国情緒はまるでシルクロードのようだった。
世界の伝統的貴族や近代的代表が、日本人のフィクションに参加してくれた光景はとても嬉しかった。わくわく。
日本の天皇制の時代錯誤な遊び・柔軟性が、日本人の統合だけではなく、世界の緊張緩和、すなわち「世界平和」にも貢献出来ちゃったりしちゃうんじゃないかな~、と思わされたよ。
以上、天皇論もネイション論も素人なナマケモノ博士が、壮大な夢想と感想を書き連ねた~🙈
あえて神秘的に権威的に執り行われたらしいのですが、くやしいが、まんまとしっかり、時の政権に乗せられちまったあ。
一連の儀式を見終わった後、京都旅行一回分よりも充実した満足感と高揚感を味わいました😌
天皇制の存在や継続には、悲喜こもごも、賛否両論ありますが、わたしはやっぱし天皇制が好き!
天皇制については(も)かなり勉強不足ですが、いつものように果敢に、素人節で天皇制について考えてみたいと思う。
日本人(ネイション)の壮大な物語(フィクション)
京都御所を見学したときも、とっても素敵だった。ああ、このお部屋ではこんな儀式があったのかな、あんなふうに過ごしていたのかなと想像しながら、いにしえの貴族文化に思いをはせた。この度の正殿の儀は、場所が徳川家(大名)のお下がりっつうのはなんですが、
実際の皇族が、雅な装束を身にまとい、本当の儀式を遂行しているんだから、もうワクワクだぜ。
まるで紫式部にでもなったつもりで、どっぷり見入ったのはわたしだけではないはず。
そう、そこが重要!
1000年以上も前の日本人(大和人)である紫式部との一体感を味わえるほど、聖殿の儀は、時と空間を越えて、古今東西の「日本人」の共通性や連帯を感じさせるイベントだったのだ。(自身の祖先が実際に何民族であったとしても…。大多数の現代日本人は大和民族ではない…)
紫式部の時代の帝と、そして私たちの時代の今上天皇は、まったく別の存在ではなく、
血統を連綿とつなぐ(とされる)、一本の軸で直接的に繋がっている存在である(と信じられる)ことが肝。
少なく見積もっても1500年以上の時間軸をグイっと突き刺すのが万世一系の(とされる)天皇の存在であり、
そこに同様に関連付けられているという壮大な帰属意識をその時々の人々に喚起する仕掛けが、高御座であり、三種の神器であり、雅な装束なのです。
これはもう、壮大なフィクションです。
古事記の神話や血統うんぬんが、どれほど真実であるかはそれほど重要ではない。
重要なのは、歴代天皇とそれにまつわる神話や権威を共有し尊重してきた人々が1500年以上も存在し続けてきたということ。
言い換えると、その壮大なフィクションに一定の価値を認め、そこに自身の帰属を見出してきた人々が脈々と存在し続けてきたことが重要なのです。
これほどまでに多くの時間、多くの人間が、同一の物語(フィクション)を大切に共有し続けられたことが、ロマンなのです。(後述するように、それはガラパゴス的奇跡です)
正殿の儀は、その日本人の物語(フィクション)を強化するイベントです。
私の友人が、まんまと「日本人でよかった」と感想を述べていました。
こうやって、令和を生きるわたし達も日本人の物語に参加し、そういった多くの人々の参加によって物語はさらに強化され、この先も日本人の物語(大和の神話につながっている私たちという連帯意識)は続いていくことができるのです。
現代の天皇は、悠久の時を超える「日本人の物語」を維持させるための重要な支柱、まさに日本人統合の象徴の役割を果たしています。
その神がかりな役割が、その役割を担わされた生身の人間にとって、好ましい役割であるのか否かは議論のある所ですが。
大いなるガラパゴス
たとえばフランスや中国のように、旧体制の王を廃して、まったく新しい近代国家を作り上げてきたネイションもある。いや、世界ではそれが多数派です。それはそれで素晴らしいネイションだと思います。しかしわたしは、生まれながらにこのネイションの一員ですから、馴染みの深い日本人ネイションのあり方にやっぱし愛着がある。旧体制を温存しながら都合よく近代化を取り入れてきた、アバウトな感じ。
今でも王制をとる国は、世界には27カ国あるそうです。
その中で、日本の王室はダントツの最長。1500年以上。
その次がデンマークで1000年強、次が英王室の1000年弱だとか( 歴史が長い世界の王室トップ10!)。
時間の長さだけではなく、王の権威の由来が、
ヨーロッパでは神から委ねられたものであるのに対し(王権神授説)、
日本では血統、神の子孫だから偉いということになっている。つまり、より神話的。プリミティブ。
近代の政治原則である政教分離から最も遠いところにある。
世界各地で18世紀~20世紀にかけて排除してきた、いわゆる「悪しき古き」アンシャンレジームを、
なぜだか日本人だけが、「封建的」とか「後進的」とか指摘されながらも、するりするりと批判をすり抜けて、王の権威を適宜うまく利用しながら、執拗に、現代にどどーんと存続させてきた。まさにガラパゴス!我が道を行く!
三種の神器の継承なんて、裁判所の判断を待たずとも、誰もが宗教世界のイベントだと思いますよね~~。(違うの?)
それを税金で執り行うってことは、国民全部を宗教儀式に無理やり動員していることになるんじゃないのかなあ。(違うの?)
そう、理屈上は(たぶん)いたって間違いだらけなんだけど、
そうであるにもかかわらず、その「時代遅れな」日本人の物語を、なぜかみんなで大事に共有しちゃっている。
ときどき、天皇制を廃止せよとか、デモがあったりもするけれど、そういった声が大多数にはならない。フランスや中国のように、王族と呼ばれる人たちを普通の人間に引きずり降ろそうとする勢力が広がらないのだ。
反対に、大多数の日本人は、王の権威を信じ、尊重している。儀式の最中に雨が止んで虹が出たら、「やっぱり天皇は神がかっている」とありがたがってしまう。
いやあ、実に素晴らしい。おそらく古墳時代や飛鳥時代とかわらない「王の権威」への心服。
古代の超プリミティブな政治制度を、現代社会に融合させ、さらに発展させようとする、日本人の独特なガラパゴス感覚こそ、世界の稀少価値、日本のウリではないだろうか。
聖と俗を二元的にきっちり分けて捉えるのではなく、
聖を俗の中にちょこっと取り込んでしまう。そのことで、俗世界の高度な緊張を相対化し、俗世界にちょっとした遊び(和みや安らぎ)をもたらすのだ。
その性質は、ポケモンやゆるキャラにも具現化されている。
俗世界にいるはずのない妖怪を、あたりまえのように俗世界に持ち込んで、その融合を思いがけなく成立させてしまう。
そのことで、俗世界に、ちょっとした遊び、柔らかさや緩やかさを演出する。
不遜な比喩で申し訳ありませんが、天皇制も同じ。
あえて特別な聖的世界に留め置いた天皇を、超近代化した現代社会に融合させることで、俗世界の要素だけではなしえない、次元を超えた統一感覚、つまり和を日本人ネイションにもたらしているのだ。
このように日本の天皇制は、日本人ネイションの、なにやらしぶとく払しょくされずにある、社会経営上の時代遅れな知恵や根底的な遊び心を反映している。
良く言えばしなやかな柔軟性、悪く言えば呪術への頑固な執着。
どう活かすのか?
現代社会における天皇制、およびそれを存続させるための制度やしかけが、現代社会において様々な矛盾をはらんでいるのは重々承知である。呪術からの解放、社会の近代化、すなわち民主化によって、世界(とくに先進国)は公正で自由な(あるいはそれを実現しようとする)社会を発展させてきた。
基本的にわたしは、こっちよりの思考回路にいる。強いて言えば左寄り。
でもさあ、厳密な論理的整合性・正しさによって社会を構成するのではなく、
良くも悪くも、次元をずらす遊びで社会を構成するのも、一つの知恵なのかな~とも思う。たまにはね。世界全部がそれだと困るけど…。
ご存じ、近代社会はいま見直されるべき時代にある。
経済の近代化は環境負荷を内包していたために、いま環境問題が危機的状況にある。
政治の近代化は世界全体に公正と自由をもたらすことができておらず、むしろ南北間の公正性をいっそう悪くしている側面もある。
なにか、ちょっとした、しかし深いところでの、方針転換が必要なのだ。
ヨーロッパ由来の「近代」に対して、別の味付け、つまり「厳密な整合性」をあえてずらす日本のてきとースパイスが、もしかすると、よい出汁になるかもね~~と、ちょっと期待。
ところで、儀式の中でちょっと心配だったのが、
高御座から天皇が、日本国民の代表としての安倍総理大臣を見下しただけではなく、
180余国からいらした賓客をもそのような位置に置いたのではと心配した。(違う?)
それについては、どの国からも批判が出なかったので、取り越し苦労だったのかも。
その賓客らは、それぞれに民族衣装などをみにつけて駆けつけてくださり、
その多様性と異国情緒はまるでシルクロードのようだった。
世界の伝統的貴族や近代的代表が、日本人のフィクションに参加してくれた光景はとても嬉しかった。わくわく。
日本の天皇制の時代錯誤な遊び・柔軟性が、日本人の統合だけではなく、世界の緊張緩和、すなわち「世界平和」にも貢献出来ちゃったりしちゃうんじゃないかな~、と思わされたよ。
以上、天皇論もネイション論も素人なナマケモノ博士が、壮大な夢想と感想を書き連ねた~🙈