HSP宣言!わたしは偏見からの自由を勝ち取るぞ=

HSP論を知り、自分をHSPと捉え直すことで、本来の自分を取り戻せそうな気がしてきたよ!の巻。


HSP論自体や自己診断の信憑性は棚上げし、効用にのみ着目して、私にとってのHSP論の精神的効用を整理してみる。

本来の自分

自分で言うのもおこがましいが、大昔の自分は、
ハッピー、イージーゴーイングのボジティブなアホだった。
いつもニコニコして、たまにおどけたりボケたりして喜んでいた小心者のミソッカスだった。

今の自己像と真逆!?

キャラが激変した要因として、HSP以外の要素も、もちろん多々ある。
天真爛漫なアホのままでは社会で通用しないので、人並みに、厳しさや強さを意識的に身に着けてきたと思う。若い頃のアメリカ暮らしで主張文化を身に纏った影響も大きいだろう。

こういった、自分で選択した変化、いわゆる「成長」はよいとして、
それ以外にも、外部から強いられてきた、歪んだ変化があるような気がする。
それが、HSPと関係していると思うのだ。

HSPに対する世間の評価

子供の頃 or 若い頃からずっと、「神経質」「気にしすぎる」「完璧主義」「真面目すぎる」と言われ続けてきた。

腑に落ちない気持ちがありつつも、眼前の現象を見ると、確かにその通りであった。たとえば、

誰も気になっていないのに、わたしだけ、大きなテレビの音やエアコンの風が不快すぎて仕方がない。可能であれば、その場から逃げるなど、自分で処理するのだけど、どうしようもないときは、音量や風量を下げてほしいとお願いすることになる。音や風だけではなく、匂いや味や肌触りなど、あらゆることでそういう状況が頻出するので、神経質で面倒くさい人間だと思われたり言われたりし続けてきた。私って神経質で面倒くさいやつなんだよなー。直したいなー。と思ってきた。

はたまた仕事をすれば、眼の前のタスクだけではなく、その背後にあるあらゆる可能性に気を取られ、もっと抜本的で本質的な対策を優先すべきと、つい思ってしまう。他者にもそれを求めるし、自分でも仕事量が抱えきれなくなってしまう。そうして「頑張りすぎ」「真面目過ぎ」と言われ続けてきた。私って完璧主義なんだなー。真面目過ぎなんだなー。直さなくちゃなー。と思ってきた。

そうやって、自分は「神経質」で「真面目すぎる」人間だと自己認識することになる。それを矯正すべき欠点だと認識し、しかしどうしたって直せない事態にもがく。「神経質」「真面目すぎる」「だから駄目なんだ」と言われるたびに、腑に落ちないものの認めざるを得ず、自己肯定感をグサグサと傷つけられ、どんどん素直さを失っていったように思う。

更には、「ありもしない苦情を並べ立ててワガママを言う」とか、「意地悪を言う」と責められたこともある。釈明の余地もなく。
私のことを理解してくれる人はどこにもいないし、どうしたら分かり会えるのかも分からず、ただじっと我慢するしかなかった。強い憤りと恨みを密かに抱えつつ😠

いつしか私は、ニコニコ、ヘラヘラ笑うことも、おどけることも少なくなっていったように思う。だって私は、ハッピーキャラではなく、いつも不快なイライラ神経質人間だから。イージーゴーイングでもなく、完璧主義の厳しい人間だから。他者から与えられた、腑に落ちないが否定しきれないキャラを、不本意ながら引き受けざるを得なかったのだ。

優しさや素直さもあえて封印し、心を閉ざすことで、自分の核を守ろうとしていた側面もあるかもしれない。そのせいで、ひどく用心深く臆病だったり、その裏返しで無駄に強く厳しく振る舞ったり、傷ついていることを自分自身にさえ素直に認められなかったり…。なんだか、すごく不自然で、ギクシャクしているんだよな〜と、薄々気づいていた。



HSP論で分析しなおすと?

ところが、この状況をHSP論で分析し直すと…、
あーれー全然違うジャーン!わたしはハッピーでイージーゴーイングなアホのままなんじゃーん、とすごく腑に落ちるのだ。

感覚過敏のことを「神経質」と言うならば、わたしは間違いなく神経質である。しかし「気にしすぎ」なのではない。直せなくて当たり前なのだ。犬にそんなに嗅覚を働かせるな、気にするなと言っても無駄なように、私に五感をそんなに働かせるなと言っても無駄なのだ。性能の良い感覚器官を持って生まれてしまったのだから仕方がない。気にしてなくても、自動的に気づいちゃうんだもん。

近視眼的ではなく、本質的に物事を捉えようとする人を「完璧主義」と言うならば、それは私のことである。だって、人より多く見えちゃうんだもん。状況を読めちゃうんだもん。しかし「真面目すぎる」わけでは全然ない。いかに手を抜くか、というのがここ数年の主要テーマとなっており、気が付かないふりをしている仕事は数しれない。むしろ不真面目とも言える。ただし、いかんせん情報量が多すぎるのだ。限られた体力に比して、興味関心が多すぎるのだ。「真面目」というよりは「欲張り」や「とっ散らかってる」の方がしっくりくる。

追加的に言うと、悪い誤解だけではなく、良い誤解もあったことに気づいた。
小さいころから、世界に対する気づきや洞察力や関心が高かったのだろう。
だから、「かしこい」とか「優秀」と思われてきた節があるし、自分も比較的そういう人間だと思っていた。
いや、違った。単純に情報量を多くキャッチするだけだった!
それらの多すぎる情報を論理的に秩序立てて整理し、活かし切り、新しい社会像を切り開いていくようなステキ能力は備わっていなかった…。
つまり、ただの、とっ散らかってる「アホ」でしかなかったのだ。

このように捉え直せば、いろいろなことがすごく腑に落ちるし、よって無駄な偏見に捕らわれずに、本来の自由な自分を取り戻せるような気がしてきた。

第一に、「神経質」も「完璧主義」も直せるようなものではないと諦めるべし。時には意地の悪い「クレーマー」と思われても仕方がない。そこで、自分の性格が悪いからとか、修業が足りないからとか、自己肯定感を下げる必要はどこにもないのだ!鈍感な社会に生きる敏感な人間という事実が全てである。
実は私は驚くほどよくやっている。できるだけ他者に迷惑をかけないように、しかし自分の平穏を守るために、HSPの処方箋として勧められていることの多くを、気がつけばずっと子供の頃から自主的に実践してきた。ハウツー本を見ると、今更〜?もっと良いアドバイス・プリーズと思うほどである。

第二に、人よりも多く、見える、聞こえる、考えられることは、不都合なことがたくさんあるけれど、むしろスゴイ能力ではないか。gifted!
ただの「とっ散らかってるアホ」から脱却し、研究者として、先生として、そしてたぶん良き隣人として、「そこそこ役に立つとっ散らかり」へと活かせる道があるのではないだろうか?!具体的にどう活かせるのかは、これから考える…💦

HSP論の精神的効用

このように、HSP論のフィルターを通すことで、自分がすごく楽になる。
第一に自己肯定感が守られる。意外に重要!無駄なところで悩んだり戦わなくて良いってわけ。
第二に、すんなり納得できるし、疲労問題への処方箋も格段に有効なものになるはず(犬に臭覚を働かせるなといった処方性よりは格段に効き目があるはず)。
わたしにとってHSP論はミラクルな啓示なのだ!真偽はともあれ、信じる者は救われる。わたしはこれに乗るよ!「わたしはHSPである」と、ここで高らかに宣言しまーす!

わたしは実は、自分や周りが思っているよりもずっと、
神経質イライラ人間というよりは、ハッピーなズボラ・ナマケモノなのだ。どうでも良いことはどうでも良い。ねばならぬには縛られない柔軟性がある、はず。
厳しい完璧主義者というよりは、多様性を重んじ、意外に思いやりや寛容性のある平和主義者である、はず。

いや、違っていてもいいのだ。
どうせキャラに縛られるのであれば、
不本意なかたちで引き受けてきたギスギス・キャラではなく、
自分自身が自分を好きでいられるようなホノボノ・キャラに縛られたい。

これからは自由になるぞ!
今の、いい感じの前向きな気分を忘れそうになったら、ここに戻ってくるべし!
これからも「神経質」「真面目過ぎる」といったディスリに振り回されて身動きが取れなくなることも多々あると思うけれど、
時間はかかるかもしれないけれど、
わたしは偏見からの自由を勝ち取るのだ~!目指せ、勝利の「独立宣言」!